Getting To Know Jay - Jayの軌跡
皆様に “私が一体何者なのか?” を知っていただくために小出しでお伝えするコーナー
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2007年7月掲載
ホームシック
滞米生活19年。ホームシックとか、「日本へ帰りたい」と思ったことは一度もなかった・・・いや、一度だけあった。 それは・・・
1988年5月に単身フロリダ州マイアミへ渡り、大学付属の英語学校へ入った。そこを半年で辞め、子供のころからの夢であった「空」へ挑戦するために英語もできないのにアメリカ人のフライトスクールの門を叩いた。日本人は私だけ。英語ができないのも私独り。航空法規、気象学、航空力学などの授業は何を言われているのか全然理解できなかった。教官には「わかっているのか?」といつも心配されていた。「No problem」と口では言っていたが、内心は“ヤバイ!どーしよーっ”とすごく焦っていた。
その時に間借りしていたのがジャマイカ人の家。いろいろと話しかけてくれるのだが、レゲエみたいな口調で余計わからなくなって困った。
飛行訓練中にはインストラクターから言われることも、管制塔からの指示もしっかりと理解できず、「セスナの免許取得は無理か?」と感じた。
「早く日本へ帰りたい」と弱気になった。
でも始めた以上途中で辞めるわけにもいかず、夜寝る時間を削って必死に英和辞典を引きながらブ厚い教科書を独学で勉強した。訓練が終わると飛行場に残りいつまでも、管制塔と周囲の航空機の交信を無線で聞く努力も続けた。夜腕立て伏せをするときには、「一、二、三」と数えていたのを「one, two, three」へ変えた。
今振り返って見ると、この“あがき”のお陰で短期間に英語力が急速に上達したようだ。同期のエアライン志望のオランダ人と同じ日に自家用免許の試験に合格した。あの時の感動と達成感は忘れられない。オランダ人の彼と世話になったインストラクターのOscarと一緒にその晩スポーツ・バーへ飲みに行った。それまでのストレスと緊張感から開放され久し振りに沢山笑った。バドワイザーが美味しかった。
その2年後に自分がインストラクターとなり、日本からの生徒さんに教習をしているとき「彼らは恵まれている」とつくづく思ったが、今考えると恵まれているのは試練を経験できた自分だったのだろう。
「英語がわからなーいっ」なんて文句を言っている生徒さんを見ると「努力もしないで何言ってるの!」と激を飛ばしていたので、皆には厳しい教官だと思われていたようだ。
「日本へ帰りたい」と弱気になったのは、この一度きり。
2007年9月
アメリカ大陸横断珍道中 その1
マイアミで働いていた飛行学校の倒産が切迫し給料も無い状態が数ヶ月続いていた。「これでは生活できない」とカリフォルニア行きを決断。1992年2月21日に4年間住み慣れた大好きなマイアミに別れを告げ、家財道具をオンボロのFordに積んで大陸横断の旅に出発した。そのときのエピソードを数回に分けてお話します。
I-95でフロリダを北上し、10 Fwyへ乗り換えて西への果てしないドライブが続いた。せっかくの機会だから有名なニューオリンズで一泊してみたいと立ち寄った。
ダウンタウン周囲は街が荒れており、とても治安が悪そうで驚いた。「有名なフレンチクウォーターを見てみよう」と荒れた街並みを勇気を出して歩いて行った。ニューオリンズの中心地に近づくと大勢の人達が手にお酒を持ち歩きながら飲んでいる。皆真っ赤な顔をして大騒ぎ。道路は歩行者天国のように人で溢れ、酔っ払い同志がケンカをしている。建物の二階のバルコニーでは女性が上半身裸になって何やらわめいている。警察官は面倒くさそうな顔をして馬にまたがりその群衆の中をパトロールして行く。
「一体この街はどうなっているのか?」
バーボンストリート沿いのバーに入り、「バーボンストリートなんだからバーボンを」とJim Beamをロックで飲んだ。店の片隅で初老の黒人男性がサックスホーンを演奏していた。すごく絵になる貫禄、年季の入った音色、“これが本場のジャズか!”と鳥肌が立つほど感激したのを覚えている。
後になって、私は“マリグラ”という大きなお祭りに偶然遭遇したことを知った。“うわーっ、なんて運が良いんだろう!”
まだピンチがいくつも待ち構えていることなど知るよしもなく、翌朝オンボロ車でニューオリンズを発ち、再び西へ向かって走り始めた・・・(次回へつづく)
2007年11月
アメリカ大陸横断珍道中 その2
家財道具を積み込んだオンボロのフォードでニューオリンズを出て、10 Fwyを再び西へ走り始めた。アラバマ州からテキサス州へ入る。
ヒューストンを越え、サンアントニオを通過しようとした時のことだった。突然、車の下から「ガリガリガリ・・」という大きな音が聞こえびっくり。慌て高速道路から降りる。近くにデニーズを見つけ、ガリガリと音を立てながらそこの駐車場へたどり着く。停止して車の下を恐る恐る覗いて見る。排気マフラーが外れ地面を擦っている。“うわぁーっ”
なんとかカリフォルニアへたどり着くギリギリのガソリン代とモーテル代しかポケットに入っていない。当然、車を修理するお金なんて無い。
見ず知らずのテキサス。日の沈みかけたデニーズの駐車場でしばらく途方にくれていた。周囲はどんどん暗くなって行く。その時・・・
ちょっ、ちょっと待てよ!確か友人のお兄さんがサンアントニオ近郊に住んでいたはずだ!
デニーズに駆け込み、電話帳に跳びつく。ちょっと珍しい名字だったから・・・えぇとー、あったぁーっ!探していたものが見付かったのに自分の目を疑った。内心、見付かるはずがないと思っていた。
マイアミにいたときの友人カレンの家のクリスマスパーティーで一度だけ会ったことがあるスティーブ。サンアントニオから遊びに来ていた。
ドキドキしながら番号をダイヤルしてみる。スティーブの奥さんのデビーが電話に出た。私からの電話に相手も驚いていた。事情を説明すると、「今から15分ほどで迎えに行くから」との返答。
信じられなかった。マイアミからロスへの5000キロの大陸横断で、唯一知り合いのいる街で車が故障した。それも彼の家から15分の場所。それだけではない、彼は米空軍のメカニックだった。その晩は泊らせてもらい、明朝になんと彼が車を直してくれた。これを「偶然」と呼んだら神様にしかられてしまう。今でも信じられない。
伝えきれない感謝の気持ちを残しスティーブの家を出た。「本当にラッキーだったなぁー」としみじみ思いながら、また10 Fwyを西へ向かって走り出した。
この後もまだピンチが待っているとは夢にも思わず・・・(次回へつづく)
2008年1月
アメリカ大陸横断珍道中 その3
幸運に車も直り、西へ西へ10Fwyを走り続けた。この車は冷房も暖房も壊れているが、いつも窓を開けて爽快に走っていたので気にもならなかった。
その日は10Fwyでテキサスを通過中だった。雲行きがおかしくなってきたなぁ、と思っていたら大粒の雨が降り出し、ものの数分で豪雨にかわった。冷暖房が壊れているためDefoggerも作動せず、タオルで正面と運転席側の窓ガラスの曇りをふきながらの運転をしばらく続けていたが、雨は強まる一方。ワイパーをフル稼働しても雨の量があまりにも多く前が見えなくなるほど。車内の曇りを軽減するために豪雨の中、窓を開けてズブ濡れになりながらの運転。
高速道路で前後左右がほとんど見えずに走っていることに不安を通り過ぎて恐怖が襲ってきた。体が硬直し、冷や汗が出てくる。明朝の新聞に“テキサスのフリーウェイで大事故”といった縁起でもない記事の空想が頭をかすめる。「こんなところで死にたくない!」と本当に思った。
車線変更をしてフリーウェイから一刻も早く降りたいのだが、となりの車線の状態が全く見えない。スピードをどんどん落している一方、後ろから追突される恐怖、いつ前方に何が現れるかわからない恐怖。。。気持ちが焦るだけでどうしていいかわからなかった。
激しい雨が頬を打ち、自分が座っている運転席の座席に水が溜まってきている。聞こえるのは豪雨が冷酷にバシャバシャと私のオンボロ車を打ちつける音だけ。周りの様子が見えない。
私は今までの人生の中で真剣に「死ぬかも知れない」と思ったことが4回ある。そしてこれはその中のひとつであった。不思議なのは、これら4回とも恐怖の中で無我夢中になっていて気が付くといつの間にか大丈夫になっていたこと。このときも、気が付くとランプから一般道へ向かって走っていた。視界の無い中どうやっていくつもの車線変更をして次の出口までたどり着いたか記憶がない。近くのスーパーの駐車場へ車を停めたとたん、「助かったぁー」と全身に鳥肌がたったことを覚えている。
通りがかる人達が、大雨の中車の窓を開けっ放しにしてズブ濡れになって座っている私を不思議そうに見ていた。
私の試練はまだ終わっていなかった・・・(次回へつづく)
2008年3月
アメリカ大陸横断珍道中 その4
テキサスでの豪雨を生き延び、また西へ西への旅が始まった。フリーウェイの両側には馬に乗ったインディアンの軍勢でも出てきそうな荒野が永遠に広がる。
“Welcome to New Mexico”の看板が目に入る。「いろいろハプニングもあったけど、ロスまでの残りの旅はスムースに行きそうだ」と気を緩めていたときだった。前を走っている車がみなブレーキを踏んでスローダウンしている。フリーウェイの遥か前方にゲートが見えた。「こんな何もないところで一体どうしたんだろう?」。だんだん近づいて行くと、“US Immigration Check Point”という文字が目に飛び込んできた。そのときの私はビザはとっくに失効して不法滞在者の身分。一本道のフリーウェイで逃げ道はない。体中の血の気が引き、頭の中が真っ白になった。
他の車やトラックは検問所を難なく通過している。
私の番が来た。
“Where are you going?” 「To Los Angeles.」 “Are you an US citizen?” 「No.」 “Well, please pull over and have your passport ready.”
「もうだめだぁーっ!強制送還されるー!!」
指示された場所へ車を止め、パスポートを旅行かばんから出してオフィサーへ渡した。ビザの欄を見られたら不法滞在は明白。まるで死刑の宣告を受けた囚人のような絶望感が襲ってきた。
“Oh, you are from Japan. Okay, you can go.”
「えっ?」予想外の対応に当惑。何がなんだかわからずパスポートを受け取り急いで車に乗り込む。バックミラーで誰かが追いかけてきていないか確認しながら焦って発進。ハンドルを握る手がしばらく震えていた。
あのときの私は、4年のマイアミ生活で真っ黒に日焼けし、オンボロ車に家財道具をぎっしりと詰め込み、擦り切れたジーパンに洗いざらしのシャツ、というメキシコからの不法入国者と勘違いされても仕方ない外見だった。オフィサーは私のパスポートを見て、“なんだ、こいつは日本人か”とビザの有無も調べずにOKしてくれたようだ。私にとっては、正しく“命拾い”の経験だった。
このときほど、日本人であることに感謝したことはない。(次回へつづく)
2008年5月掲載
アメリカ大陸横断珍道中 その5
またまた強運に助けられてニューメキシコで移民局の検問を通過。手の震えも冷や汗も止まり、また元気に西への旅を再開した。
10Fwyから外れFlagstaffを経てグランドキャニオン国立公園へ。グランドキャニオンは、マイアミを出発するとき「絶対に立ち寄りたい!」と決めた場所のひとつであった。
まだ雪の残る2月末。標高がどんどん上がり空気が薄くなって私のオンボロ車はエンジンが苦しそうな音をだす。こんなところでダメにならないでくれ!と祈りながらドライブをつづけた。
季節外れで周囲にほとんど人がいない。陽が西へ傾き、渓谷全体が黄金に光っていた。初めてグランドキャニオンと対面した。
「・・・」
絶句。
何億年だか何十億年だかの侵食が作り出した壮大な景観に言葉がでなかった。その感動を表現する形容詞が見つからない。ただ、ただ、大自然の偉大さに圧倒され寒さも忘れてしばらくその場にたたずんでいた。
自分の肉体という物質的な小ささ。でも、その中に息づく魂はこの大自然と共鳴していることが実感できた。
体中に鳥肌が立つ。頭の中が空っぽになり、心が平安で満たされる。何かわかったようなわからないような、でも自分には一生忘れられない感動であった。
ひとりで感動に浸っていたとき、大型観光バスが到着して日本人の団体一行がおしゃべりをしながらぞろぞろと降りてきた。
神聖な気分がいきなり吹っ飛び、「もう少し静かな時間を過ごしたかったのに・・・」と悔やみながら近くの宿へ向かった。
私の新天地カリフォルニアへの旅も終盤に入った。次の目的地は初めて訪れるラスベガス。(次回へつづく)
2008年7月掲載
アメリカ大陸横断珍道中 その6
「絶対にまた会いに来る」とグランドキャニオンへ告げて最後の“寄り道地点”ラスベガスへ向けて出発。
ゴールドラッシュの時代にできた賭博の街。それまで映画などで派手な街並みを見たことはあったが、自分がその地を初めて訪れることに大きく胸をはずませた。
途中、1929年の大恐慌以降の経済活性のために国家プロジェクトとして構築された巨大なフーバーダムを通過。「ここでラスベガスの莫大な電力が作られているのかぁ」と感心した。
私がラスベガスに到着したときにはすでに夜。絶対に日本では存在しえないカジノ街の迫力に唖然とした。「うわーっ、すげーぇ!」と田舎者まる出しでキョロキョロしながら運転して危うくタクシーにぶつかりそうになった。
お金がなかったので、ちょっとはずれたところの古いホテルへチェックイン。そしてオールドタウンのGolden Nuggetsでギャンブルへ挑戦、とは言ってもそのときの予算は$20。ドキドキしながら25セントのスロットルマシーンを始める。
バニーガールさんが無料でビールを持ってきてくれたのにはびっくり!「ここはいいところだなぁ」と上機嫌で約2時間ほど遊んでいたらなんと$20が$250に増えてしまった。
そのときの私にとって$250は大金である。現在の原油高騰では信じられないが、当時は1ガロン$1以下だったので、「大陸横断のガソリン代+宿泊代を稼いだ!」と大喜びしたのを覚えている。
数千ドル、数万ドルというお金があっという間に増えたり減ったりするカジノ。豪華なホテルが立ち並び、別名“Sin City”と呼ばれる理由がわかるような気がした。「ここに長く居ると金銭感覚がおかしくなりそうだ」と感じた。
“All You Can Eat”バッフェで美味しいものをガツガツ苦しくなるまで食いだめして大満足。こんな良い所、もう一泊しようか・・・と思ったが、「調子に乗るとせっかく稼いだお金を失うことになる」と言い聞かせて最終目的地のロサンゼルスへ向かって出発した。(次回へつづく)
