「最終的にお客様を守るのが書類よ。
つまり、法的な垣根を作るの。
多くのエージェントがペーパーワークを馬鹿にするけど、とっても大切なのよ。」
「ワタシみたいに長い間この仕事してると、エージェントに色々、アドバイスを聞かれるのよ。でも、本当は全然解らないのよ(笑)。
だから言うの、ペーパーワークの事ならなんでも教えてあげるけど、あとはセシルに教えてもらいなさいって。」
「大事なのはエージェントとの密接なコミュニケーションね。
常に進行状況を明確にしておくこと。」
「ボギーと毎朝5時に起きて、2人で散歩するのが日課なの」
愛犬のボギーにはめっぽう弱いのが弱点です
「うちは、お父さんが土地ディベロッパー、兄がローンオフィサー、
母も元エージェントっていう不動産家族で育ったの
だからワタシも不動産が大好き(笑)」
「不動産売買はとってもタイムセンシティブ。
だから、迅速な対応は心がけてるわ」
「自分にハードに生きるくらいが好きなの。
でも部下達や周りの人にまで、同じ期待をしちゃうの、直さなきゃね。(笑)」
自社のフュミゲーション部隊(テントを被せる駆除法)を持っており
40~50社のシロアリ駆除会社がラターナの会社に依頼している。
サウスベイで見かけるシロアリテントはほぼ彼の部隊によるもの
「ハイスクールを卒業した後、害虫駆除の道に入ってから
ずっと虫退治の人生だよ(笑)」
涙もろいのが欠点です。
「パン屋を営んでいた親父に進めれれてね、ビジネスの道を選んだんだ。
でも、正直に告白すると、本当はシェリフになりたかったんだ(泣)」
ログハウスを作るコースまでとったという
根っからの工作好き。
「小さいときから、モノを作ってるのは好きでしたね」
「人生ってゴルフと同じで自己申請だと思うんですよね、
別に他人がいつも見てるわけじゃないし、
でもズルすれば自分は絶対知ってますからね」
「ぼく、ルートビアーが飲めないですよ(笑)。
あれだけは何回挑戦してもダメですね。」
山口県柳井市出身の父と茨城県古河市出身の母が東京で出会った。その数年後に私は長男として東京の練馬区にある成増病院で生を受けた。
不動産業を営んでいた父の姿を見ながら育ったせいで、言葉の覚え始めに学んだ単語のひとつが「物件」であった。いつも電話の受話器を手に持っては「ブッケン、ブッケン」と言っていたと母が話していた。
私がまだ幼児の時に、酔っ払いが父の運転する車の真ん前に飛び出してきて跳ねられ亡くなるという惨事があった。
その時代の交通法は“何があっても車が一方的に悪い”というもので、両親は膨大な慰謝料の支払いのために購入したばかりの新築の一戸建てを手放し、大きな借金を背負って古くて狭い借家へ移った。
襖で仕切られた小さな部屋が2つ、キッチンとは呼べないほどの狭い台所、そして暗いトイレがひとつ。今でもその家の様子は鮮明に覚えている。私の記憶はそこから始まっている。私にとって最初の“家”であった。
小学校に上がる時に父の努力の甲斐があり一戸建てを新築した。決して大きな家ではなかったが、骨組みが完成したときに現場で行われる“建前”という日本ならではの行事で、大工さんたちを食事とお酒でもてなし、骨組みだけの二階から5円玉やお餅などをばらまいたことを想い出す。
子供の頃から運動が大好きだった。小学生の時には少年野球、中学校ではサッカー部。
中学の終わりにブルースリーの影響で始めた空手が自分の人生を大きく変えた。特別な才能があったわけでもなく、体も小さかったために大した活躍はしなかったが、その後、高校、大学と続けた武道で、自尊心、心身の鍛錬、謙虚、という大切なことを学んだ。
1988年の5月に、日本人が少なく空と海が綺麗なフロリダ州マイアミへ憧れの単身渡米。現地の語学学校を半年で辞め、子供の頃からの夢である「空」へ挑戦。セスナの免許を取得した時に飛行学校のオーナーから「もしよかったらウチで働かないか?」というまたとないチャンスを得て残留を決意した。そこではヘリコプターの勉強をして教官の免許を取得。フロリダの大空が私の職場となった。
少しするとその飛行学校の経営が危なくなって給料もストップ。社長への義理、そして私を頼りにしている生徒さん達への責任感で無償で教習を続けた。毎晩8時から夜中の2時まで近くの日本食レストランで皿洗いをして食いつなぐ生活が続いた。いつも睡眠不足で、夜の仕事への行き帰りに居眠り運転で何度も事故を起こしそうになったが、運良く大事に至らなかった。
お金が無いことより辛かったのは、日本人の生徒さんがそのレストランへ食事に来て私がキッチンの裏で皿を洗っている姿を見られたこと。昼間は希少な日本人教官ということで皆に慕われ頼られていた私に反面があることを知られることが悔しかった。“若いときの苦労は買ってでもしろ”という父の言葉を思い出して頑張れた。後には「皿を洗ってでも生きてゆける」という自信につながる貴重な経験だった。
「是非とも日本人の飛行教官を」というお誘いをもらい、大好きだったマイアミをオンボロ車で出発しカリフォルニアへ向けての大陸横断を決行したのは1992年の春。
私の全財産はポケットにあるカリフォルニアまでのギリギリのガソリン代と宿泊費だけ。今だからいえるが、その時の私はビザはとっくに切れたままの不法滞在者。大陸横断の道中、テキサスで車が故障、ニューメキシコでは移民局の検問と、「もう駄目だーっ」と何度も思った。しかし、自分でもびっくりするくらい運良くこれらの難関をクリアー(これらについて話し始めると本が書けてしまうのでこれ以上触れません)。
ロサンゼルス郊外の飛行場でヘリコプター教官として働き始める。ここでも訓練飛行中に死と隣り合わせになることが2,3度あったが、不思議なくらい運良く無キズで助かった。移民局の抜き打ち査察で国外退去の瀬戸際にまで追い込まれ、弁護士に「無理だ」と言われた永住権もその数年後に取得できた。本当にツイている。
1996年に不動産免許取得。住宅ローンの仕事をしていたときに出会った不動産エージェントの横柄な態度に憤慨し、“僕が素晴らしいエージェントになってみせる!”と勢い込んでRE/MAXの門を叩いた。
私がアメリカへ残ることに大反対だった父は、「不動産をやるのなら何故日本へ帰ってこないんだ」と嘆いていた。「今、自分が日本へ戻ったら一生後悔する」との私の発言を聞いて、父は私の名前を取って長年に渡り経営していた小さな不動産会社(一英建設)の看板を下ろした。
山口の田舎を出て一人で上京し、不動産業に落ち着いた父。私は日本を出て一人で渡米し、今ここサウスベイで不動産業に従事している。やっぱり親子の血は争えないのだろう。日本にいる父へ仕事のことでアドバイスを聞くことがある。勿論、日本とアメリカでは同じ不動産業でも仕事のやり方が全く違うが、いつも彼が私へ言うこと「正直な仕事をしろ」。日本のバブルがはじけた時、周囲の不動産業者は片っ端から潰れていった。借金から逃れるために夜逃げをしたり、優雅に乗り回していたベンツも失い消息不明などなど。「正直な仕事」に徹した父は、バブルの時に大儲けはできなかった代わりに大不況を乗り越えることができた。“目先の損得でズルイことをしない”という当たり前のことを実行できる人は少ない。そしてそれを貫いた父を尊敬している。
2000年に7年間連れ添った前妻と死別した。その出来事が自分の人生観を180度変えた。私利私欲ではなく、公明正大な生き方をしなければ自分がこの世に存在する意味が無いと思うようになった。“人生にはいろいろある”と人は言うが、私は「いろいろな経験を通して自分を成長させるために人生がある」と信じている。
偶然でなく何かの縁で不動産業へ従事しているのだと思う。自分の努力が実らず、今まで何度も挫折しそうになったことがある。何度も「もう辞めてしまおうか」と弱音を吐いたことがある。でも、こうして10年以上も続けてこられたのは皆さんのお陰。
自分は、ウサギと亀に例えると「亀」であることを良く心得ているんです。父の意思を引き継ぎ、「正直な仕事」で焦らずコツコツと前に進んで行こうと思う。「公明正大」にコツコツと一歩一歩前に進むことを続けていけば、私みたいな不器用者でも皆様のお役に立てるサービスを提供できると信じている。
趣味:
- 海や山など、自然と接すること
- ダンス(音楽に合わせて体を動かすのが大好き)
- ゴルフ(下手の横好きなのに時間がなくて全然やれず、万年ビギナー)
- 子供たちと遊ぶこと(遊んでいる時は同じ精神年齢になってしまう)
夢:
- クルーザーを何人かで共同所有して、スキューバダイビングも楽しみたい
- 年に一週間ほどバケーションをとりたい
- 自分の家の庭で子供たちのウェディングをしてあげたい
- 多くの人たちに勇気と希望を与える本を書きたい